道鏡【日本三大悪人】

日本史で悪役といえばいろんな人物の名前が挙がるのですが、中でも道鏡は奈良時代に天皇と近づいては絶大な権力をふるい、日本の政治をかき乱しました。そのため、道鏡は日本三大悪人の一人と言われています。

藤原仲麻呂と孝謙天皇

道鏡の話をする前に、まずは道鏡の最大のライバルである藤原仲麻呂について少し見ておきたいと思います。

藤原四兄弟がそれぞれ天然痘で亡くなると、南家・藤原武智麻呂の次男である藤原仲麻呂が藤原家繁栄の期待を一身に背負うことになりました。仲麻呂は自身の叔母でもあり、聖武天皇の妃である光明皇后を後ろ盾として、橘諸兄などの政敵を失脚させていきました。

しかし、ここで1つ大きな問題がありました。それは聖武天皇と光明皇后の間に子供がいないということ。正確には基王という名の子がいたんですが、幼くして亡くなっていました。困った聖武天皇は妹の阿倍内親王を孝謙天皇として即位させます。そして、藤原仲麻呂は孝謙天皇のサポートに尽力しました。

藤原仲麻呂建立の栄山寺の八角円堂。建立当時そのままの状態がまだ残っています。

そんな仲麻呂ですが、後継者として大炊王(のちの淳仁天皇)を推しており、天皇として即位すると淳仁天皇は仲麻呂を重用するようになり、仲麻呂は次第に孝謙天皇からは離れていきました。

この時、孝謙天皇の両親である聖武天皇と光明皇后はすでに亡くなっており、孝謙天皇は完全に孤立。とうとう病に倒れてしまいした。

道鏡と孝謙天皇

孝謙天皇が病に臥せっていると、一人の僧が現れます。それが『道鏡』です。この道鏡に関してはあまり多くのことが分かっていないのですが、確かなことは700年に大阪の河内国若江郡(今の八尾市)の出身であるということ、そしておそらくは義淵の弟子ではないかとされています。

そんな道鏡ですが信じられないことに孝謙天皇を治すことに成功し、さらには年齢が近かった(40程度)こともあり、恋に落ち、次第に寵愛されるようになります。

弓削神社。道鏡の祖先弓削氏の氏神です。

道鏡は孝謙天皇の信任もあって、どんどん力をつけていき、次第に政治的決定にまで影響を与えるようになりました。そして、そんな道鏡の台頭を無視できなくなってきたのが藤原仲麻呂でした。

仲麻呂は孝謙天皇に道鏡との仲について危機感を抱き、乱を計画します。しかし、計画は事前に漏れていたようで、仲麻呂は逮捕されて処刑。淳仁天皇は淡路に流刑(のち暗殺)となってしまいました。孝謙上皇は淳仁天皇を廃し、自らが称徳天皇として重祚することになりました。

滋賀県高島市の乙女が池。この辺りで仲麻呂は捉えられ、処刑されます。

この戦の後の765年に称徳天皇と道鏡は2人で河内を訪問し、そこで道鏡を太政大臣に任命します。766年には法王と出世していき、とうとう待遇がほぼ天皇の状態になってしまいます。

宇佐八幡宮神託事件

そしてとうとう769年。恐れていた事態が発生します。

なんと宇佐八幡宮の神職らが『道鏡を天皇にすれば、世の中が安泰となる』ということを奏上し始めたのです。称徳天皇以外の人物はかなり腑に落ちない様子でした。というのも、実は宇佐八幡宮には道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)がいたからです。弓削浄人も道鏡が実権を掌握するにつれ、一気に台頭してきた人物でした。

称徳天皇はこの真相を確かめるため、和気清麻呂ら有名な政治家を宇佐八幡宮に派遣します。

和気清麻呂を祀る護王神社

しかし、清麻呂が得た神託は『開闢以来、君臣の分は定まっており、後継者には必ず皇統を建てよ』ということ。つまり天皇家でない道鏡は天皇になる資格はない、ということでした。

これを聞いた称徳天皇は激怒し、和気清麻呂らを大隅国へ左遷。途中で暗殺されそうにもなります。

結局道鏡は天皇になることはなかったのですが、それでも称徳天皇の道鏡への愛は変わらなかったようです。二人はその後も道鏡の出身地である河内を訪れました。この時、八尾に由義宮を作り、そこを平城京の副都「西京」と定め、例を見ないほどの大きな七重塔も建設しました。

由義寺跡。最近になって考古学的証拠が見つかりました。

しかし、しばらくして称徳天皇は病に倒れ、770年にこの世を去りました。

道鏡の追放と終焉

称徳天皇が770年に亡くなると、道鏡は完全に影響力を失い、最終的には下野(今の栃木県)の薬師寺に左遷となりました。その2年後に道鏡は亡くなります。また、道鏡により奈良から追放されていた清麻呂らも次々と戻ってきました。

称徳天皇の後は称徳天皇の遠く離れた親戚である光仁天皇が即位しました。そして、光仁天皇の次には桓武天皇が即位します。

桓武天皇は仏教が力を持ちすぎてしまい、この影響から抜け出すためには奈良から都を遷す以外に選択肢はないということを悟ります。そして784年に都は長岡京に。そして794年には京都に移り、奈良に都が返ってくることは二度とありませんでした。

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