淀屋【日本一のお金持ち】
大阪は昔から、そしておそらく今でも商人の町ですね。これまでに本当に多くの起業家が大阪から出てきました。そんな商品の中でもひときわ有名なのが淀屋でしょう。
淀屋の資産は計算してみると100兆円と言われ、日本中の富を独占し、日本国よりもお金持ちになり、そして最終的には財産を没収されてしまい、裸一貫で大阪から追放されるという何とも波乱万丈な商人です。
淀屋の歴史
淀屋とよく呼ばれますが、それは実は屋号。創始者の名前は岡本常安と言います。もとは京都の生まれで、武士の家庭でした。しかし、父が戦死してしまい常安は大阪に来て、淀屋と名乗って木材屋として開業しました。
土木工事に秀でていた常安は、秀吉の伏見城や文禄堤など数多くの大規模な土木工事を秀吉より受注しました。
さらに秀吉の死後、徳川が江戸で政権を開き、秀吉の後継者である豊臣秀頼と徳川家康は後に「大坂の陣」で戦いました。大阪では秀吉に恩がある人が多かったため、たくさんの大阪人は徳川家康よりも豊臣を応援しました。
しかし、常安は違いました。明らかに徳川の方が勝ちそうだという合戦だったこともあり、徳川方に無料で陣を作り徳川方を応援しました。徳川はお礼として常安に帯刀を許し、さらには大阪の陣の後、戦後の死体の処理に当たらせ、回収した武具を転売する許可を与えました。
常安はこれにより現代の価値でいうと数千億円近い儲けを出したとされています。
しかし、中でももっとも淀屋の功績として大きいのは中之島の開拓でしょう。ただの淀川の砂州だった中之島が大阪湾からのアクセスが抜群なことに注目し、自費で埋め立てて、建物が建てられるようにしました。この開拓の際に淀屋が自費で書けた橋こそが、淀屋橋です(淀屋橋を書けたのは二代目言当ですが)
中之島は確かに常安の予想通りとても便利でした。各藩はこぞるように中之島に蔵屋敷を建て、大阪の中心地となりました。今でも中之島に様々な建物があるのも、淀屋のおかげですね。
二代目・言当
常安に商才があったように、彼の息子の言当もまたよくできた息子でした。父の稼いだおかねをもとに事業を次々に展開していきます。
特に大きな功績と言われるのは米市場の創設です。江戸時代において米は特に重要で、各藩は米を大阪に送ってお金に変えていました。しかし、天気によって値段が大きく変わるため、相場は乱高下していました。
そこで、淀屋は幕府に願い出て米市場を邸宅内に創設し、そこで米の相場価格を決めました。これにより、米の値段が安定することとなり、またそれがのちに堂島米市場となって全国の米の値段を決めることとなりました。
さらには米の手形を発行したり、時間がたつにつれて、将来収穫予定の米も取引の対象としました。これが世界初の先物取引です。
さらに言当は魚市や青物市(現・大阪中央市場)といったものも開き、大阪の市場を完全に支配していきます。
そして財産没収へ
順風満帆な淀屋もこれまでのビジネスから少し方向転換し、有り余ったお金で大名に大名貸しを始めました。もちろん金貸し事業はかなり好調で、いつの間にか西日本のほぼすべての大名が淀屋から金をかり、中には公家も含まれていました。
4代目三郎右衛門は特に豪華な暮らしをしていたことで知られ、天井にガラスを張り、そこに金魚を泳がせていたとさえ言われています。
そしてとうとう5代目広当の時の1705年に、町人にしては奢侈が過ぎるということで幕府に目を付けられ、財産没収になり、大阪から追放されることになりました。この時、淀屋は諸藩への貸し付け額なんと100兆円。さすがにこれは誇張だとしても、ものすごい額を貸し付けていたことは間違いなさそうです。
こうして、淀屋は大阪から消えてしまいました。今では、淀屋の名残はほとんど残っておりません。広当は地元の京都へと帰り、細々と暮らしていたようです。
倉吉淀屋
しかし、そんな淀屋も黙って財産をただ没収されてだけではありません。4代目重当の時、財産没収の知らせをすでに知っていたのでしょうか、淀屋の番頭を務めていた牧田仁右衛門に暖簾分けし、故郷の倉吉で新たに倉吉・淀屋を開かせ、大阪淀屋の商売を引き継ぎました。
倉吉淀屋に関してはそれほどわかっていないものの、倉吉の特産品でもあった『千歯扱き』などを生産し、大きな成功を収めました。
また、仁右衛門の子孫は淀屋清兵衛を名乗り、1736年に大坂で淀屋を再興しました。もちろん、以前ほど儲けることはなかったようですが、商人として成功するためには大阪にいなければいけないことを認識していたのでしょうか。
再び大阪に戻ってきた淀屋ですが、幕末になると急遽店をたたみ、経営をやめてしまいました。その後の足取りは一切不明です。
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