奈良県

高取城【日本最強の山城】

奈良の南に山城の1つである高取城があります。この城は現在では天守閣をもたないものの、城までの道は険しく、また城に入ってからも巨大な石垣がそびえる広大なお城です。日本三大山城にも選ばれており、お城好きなら必ず訪れておきたいところです。

高取城の歴史

高取城の始まりは1332年、南北朝時代に越智氏によって建てられた支城でした。その後、信長が天下を取ると、大和の城は大和郡山城のみと定められ、1580年高取城は廃城になります。

しかし、郡山城に豊臣秀吉の弟の秀長が入城すると、高取城は家臣の本多氏に与えられ、近世山城として大改修が行われました。

江戸時代になって本多氏の跡取りがいなくなると植村氏が城主となり、植村氏が14代にわたって幕末まで城を続きました。

高取城

高取城まで歩く

高取城までは遠いです。山城なので、山を登らなければいけません。標高は583m。比高(高低差)は400m程度。結構登ります。

入り口としては主に3つあり、(1)飛鳥から登るコース、(2)壷阪寺から登っていくコース、(3)壺阪駅から登っていくコース、とあるのですが、この中でも(1)の飛鳥から登るコースは車ですぐ近くまで行けるので人気です。とはいえ、本来は城下町がある壺阪駅から登るのが大手道(正式なコース)です。

駅から天守閣跡(頂上)までは4.5kmで、2時間ほど、道はものすごくシンプルなので、特に迷ったりなんてことはないと思います。壺阪駅を降りると、土佐街道にそってそのままっすぐ行くだけです。

土佐街道
土佐街道。6世紀に土佐(高知県)から召された人がここに住みました。
旧高取城の松の門
途中にある高取児童公園には高取城の松の門が移築されています。

ちょうどこの辺りは高取城の城下町になっており、家老屋敷もたくさんあります。

他の山城同様に、普段はこの麓で生活を送っていたようです。

植村屋敷
植村屋敷。植村家は筆頭の家老でした。

さて、この城下町を抜けると、いよいよ山道が始まります。結構きつい坂道です。特に最初は大変ですが、頑張って登りたいですね!!

高取城の入り口
さて、登城します!!
七曲り
七曲り。敵からの攻撃に備え、何度も道が屈折しています
一升坂
一升坂。まだまだ坂がきついです
猿石
猿石。猿のように見えますね! 7cに作られたもので飛鳥から運んできたとか。

さて、猿石を過ぎると、高取城の最初の門である二の門が見えてきます。

二の門の横には水堀がありますが、山城でこうやって水堀があるのは珍しいです。そもそも山の上には水がないですからね。攻撃用に作られたものに見えますが、実はただの用水路だったともいわれています。

二の門
二の門。立派な石垣です
二の門そばの水堀
二の門そばの水堀。用水路としても天守からは遠い気がするのですが…

1時間ぐらいで門まで着いた!!あと少しだ!!と思うかもしれませんが、残念ながらまだまだです。

実は高取城が最強と呼ばれる理由の1つが、天守閣までの到達が非常に困難なことにあります。なんとこの二の門から二の門→三の門→矢馬門→松の門→宇陀門→千早門→大手門→十三間多門→十五間多門といくつもの門を経てようやく天守閣に着きます。もちろんそれぞれの門には櫓があり、伏兵もいたことを考えると、かなり強固だったことがわかります。

残念ながら、門が完全な形で残っているところはないのですが、頑丈な石垣は残っているところが多いので退屈しないですよ!!

国見櫓跡
国見櫓跡: ここから奈良・大阪方面がよく見えます。
矢場門
矢場門。ここも石垣がしっかり残っていますね。
高取城への道
気持ちがいい山登りです。
宇陀門跡
宇陀門跡

千早門を通ると、ようやく大手門到着です!!ここからは本格的な城の始まりです。なお、壷阪寺から登ってくる道とはこの大手門の直前で合流します。

高取城

さて、では城の中へと入っていきます。どこの入り口から登ってきても、この大手門からは同じ道を通ります。

大手門
大手門。大きな桝形虎口です。

こんな山の上にこんな立派な城があったとは驚きです。

備中松山城に行ったときのことを思い出しますが、備中松山城より石垣はかなり複雑な構造をしており、お城は相当大規模なものであったであったということがわかります。

石垣の総延長は3.5km、そして27基もの櫓がありました。廃城になる直前にとられた写真からは、まるで姫路城のような、美しい城壁に囲まれた巨大な城だったようです。

高取城の復元図
(左)奈良産大による復元図。(右)高取城の古写真
太鼓櫓跡と新櫓跡
この上には太鼓櫓と新櫓がありました。
高取城の巨木
巨木です。神木だったんでしょうか。
高取城の石垣
本当にすごい迫力です。

さらに少し階段を上がると、やっと本丸です。かなり遠かった気がします。昔は地図もなかった山の中を歩いてここまでたどり着けた人は本当にいたのでしょうか。

この本丸には天守(三重)と小天守(二重)があり、その2つが櫓でつなげられた連立式天守閣だったと言われています。

幕末には明治新政府を嫌う1000人もの天誅組がこの城に攻め入りましたが、わずか200人でこれを防ぐことに成功。しかし、明治時代になると廃城となり、建物は自然になくなったとも売られたとも言われており、どこに行ったのかはわかっていません。

天守閣の大石垣
天守閣の大石垣。高さは約8m。
高取城の天守閣跡
天守閣跡は広場になっており、多くの人がお弁当を食べていました。
高取城の天守閣からの眺め
天守閣跡からの眺めも最高ですが… 大阪方面はここから見えないですね。
日本最強の城の旗
たしかに、『日本最強の城』でしょうね。

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