和歌山県

高野街道を歩く2:橋本~学文路

京都や堺から出発し、長かった高野街道もとうとう和歌山県へと入りました。これまでは住宅地も多かったですが、和歌山県に入るとかなり田舎になりました。このポストでは和歌山県の橋本から京大阪道が始まる学文路までの5kmほどを歩きたいと思います。

高野街道: 橋本から学文路

前回は河内長野から橋本まで歩いたので、今回は橋本からのスタートです。

橋本までは難波から南海高野線で乗り換えなしで約1時間程度で来ることができるので、かなり便利です。JR和歌山線でも来れますが、まぁ便利さを考えたら南海でしょう。橋本の駅を降りてると、紀ノ川へと向かっていきます。

橋本は昔から交通の要所として栄えており、和歌山から松阪・伊勢へと抜ける和歌山街道・伊勢街道と交わります。和歌山街道は高見山や三峰山の南のかなり山の深いところを行く街道。和歌山から五条までは歩きやすいものの、それ以降は交通手段がなさすぎて、なかなか厳しいのかも。

旧橋本本陣池永家住宅
旧橋本本陣池永家住宅。国道24号線沿いにあります。
高野街道と和歌山街道の交点
和歌山街道との交点。石碑が残されています(左)

橋本駅から少しいったところにあるのが、応其寺。木食応其という高野山の有名な僧が作った小さなお寺ですが、この応其が高野街道の便利のために紀ノ川に橋を架けました。橋本という名もこのことに由来しているんですね。結局橋はすぐに洪水で流れてしまったようですが。

ちなみに木食応其は秀吉が、僧兵によって軍隊化が進んでいた根来寺を落とした後に、同じく軍隊化が進んでいた高野山にも攻めてくるのですが、素直に秀吉に従うことを決めたのが木食応其でした。そのことあって、高野山は秀吉によって大きなダメージを受けることはありませんでした。

応其寺
応其寺

さて、紀ノ川まできました。ここにちょうど高野山まで四里を示す石碑があります。応其が橋を造る前はここから船を渡って対岸に行き、高野街道を歩いたようです。今ではもちろん立派な橋が架かっています。

紀ノ川
紀ノ川。大きな川です。ここから対岸まで渡し舟がありました。
紀ノ川にかかる橋本橋
橋本橋を渡って紀ノ川を越えます。

紀ノ川にかかる橋本橋を渡って、しばらくは紀ノ川沿い西に向かって歩いていきます。

ちなみに橋本から高野山へと向かう黒河道はこのすぐ近くにある定福寺からスタートします。向かいにある山をそのまま登っていくような感じの山道なので、かなりきついです。黒河道も町石道も京大阪道も歩きましたが、難易度的には黒河道が断然一番きつかったです。

※黒河道を登った時のポストはここ!

紀ノ川沿いの高野街道
この辺りから左に入ると定福寺。
高野街道の三軒茶屋の常夜灯
三軒茶屋の常夜灯

紀伊清水の町並み

紀伊清水の辺りまで来ると、古い家が残っています。紀伊清水は高野山まで一日の距離にあり、宿場町としてにぎわいました。

入ってすぐのところに第一の地蔵堂があるのですが、ここから高野山まで六つの地蔵堂があります。

一の地蔵
一の地蔵
紀伊清水の町並み
紀伊清水の町並み
紀伊清水の町並み
紀伊清水の町並み

橋本駅付近にもコンビニがありますが、紀伊清水駅近くにあるコンビニが最後のコンビニで、ここから高野山山頂までの20kmほどはコンビニがないので注意です。

紀伊清水から見た高野山
だいぶ山が近づいてきています。

学文路

学文路(かむろ)まで来ました。かっこいい地名ですが、元々は香室と書かれ、春には梅の香りがするところだったようです。

高野街道沿いには学文路天満宮の一の鳥居がありますが、学文路天満宮といえば、毎年南海で売られている滑らない砂で有名ですね。高野街道から少し外れたところですが、有名な神社です。

学文路天満宮一の鳥居
学文路天満宮一の鳥居。
学文路天満宮
学文路天満宮。ちょっと坂の上にあるので大変です。

ほかにも学文路には学文路地蔵や学文路刈萱堂などいろんなお寺があるんですね。

第二の地蔵
第二の地蔵(右)
高野山女人堂までの石碑
あと三里!!
かむろ地蔵尊
かむろ地蔵尊。高野街道沿いにあります。
学文路駅
学文路駅の前を通ります。

さて、学文路を少し過ぎたところからいよいよ京大坂道が始まります。高野街道の最後のパートで、高野参詣のために最もよく使われた道です。街道なので山道ではないのですが、なかなかきつい道も多いんでしょう。最後まで頑張りたいと思います!!

京大坂道の始まり
京大坂道。あと10km程度で高野山なんですよね。

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