壬申の乱【大友皇子vs大海人皇子】
皇位継承問題は古代の日本では多く発生しました。時にはそれが内紛を引き起こしてでも、だれが天皇にふさわしいのか決めようとしたのです。そのような争いの代表的なものとされるのが古代最大の戦争といわれる壬申の乱。この戦いでは大友皇子と大海人皇子が関西全域にわたって戦いを繰り広げました。
白村江の乱と天智天皇
壬申の乱の前に当時の情勢を見ておきましょう。壬申の乱がおきる前の663年、日本は白村江の戦いで朝鮮半島に出兵します。同盟国である朝鮮半島の百済を救済するという目的だったものの、そこで唐と新羅の連合軍に敗北してしまいます。
次は日本がやられるかもしれないという恐怖の中、天智天皇は飛鳥から大津へ遷都します。そして、日本初の戸籍となる『庚午年籍』を作って人民に税を課し、その中から九州の防衛として防人を配置しました。
しかし、これらの政策は民衆の生活に多くの負担を要求するものとなり、後の天智天皇の体制にに対する反感へとつながっていきます。
天智天皇
天智天皇は天皇即位前は中大兄皇子と呼ばれ、大化の改新を起こすなど即位前は波乱万丈でした。
しかし、天智天皇の後継者もかなりもめました。天智天皇は当初、弟の大海人皇子を要職に着け次期天皇候補者とするも、自身に息子の大友皇子ができると、大海人皇子の職を解き、大友皇子を優遇。大友皇子を後継者候補としました。もちろん、この決定には大海人皇子の批判をかうことになりました。
大海人皇子が天皇になりたいことは天智天皇もよくわかっていたので、天智天皇は死の直前、大海人皇子を呼び出し天皇を打診。しかし、これが罠であることを勘付いた大海人皇子は、この誘いを丁重に断ると妻と共に吉野へと出家してしまいました。
大友皇子vs大海人皇子
しかし、大海人皇子は決して許したわけではありません。天智天皇の死後、大海人皇子はすぐに大友皇子討伐に向けて吉野から挙兵しました。
挙兵してからの大海人皇子の動きは早く、すぐに東国との境となる不破の関へ向かい、東国から兵力を集めます。東国には重い税などで政府に不満持つ豪族が多くいたので、大海人皇子は兵力集めには苦労しなかったようです。その後にすぐに関を閉めることで東国からは人が入ってこられなくなり、大友皇子の兵集めが一気に厳しくなりました。
大海人皇子は不破の関そして吉野の2方向から大津にいる大友皇子を攻めようとしました。兵力にも圧倒的に差があったのでその結果は明らかでした。大友軍は琵琶湖の瀬田の唐橋で大敗した直後、負けを悟って大津で自害しました。
こうして大海人皇子は天武天皇として即位。天武は「日本」「天皇」という名前を定め、「古事記」や「日本書紀」も編纂。明日香に都を戻し、後には唐のような格子状に道が並び整然と区画された藤原京に遷都します。
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