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関ケ原を歩く【壬申の乱編】

関ケ原の戦いで知られる関ケ原。しかし、この関ケ原は関ケ原の戦いだけではありません。古代から関所が置かれ、実は古代最大の戦いである壬申の乱もこの地が主戦場となりました。そして、この関ケ原にはその壬申の乱の史跡がたくさん残っています。

関が原を歩く (壬申の乱)

壬申の乱といえば、天智天皇の死去後、弟の大海人と息子の大友が戦った古代最大の内乱と言われ、かなり大きなたたかいでした。勝者は大海人で、その後天智天皇になりましたが、その勝利を確実にしたのが、大海人皇子がこの不破の道(現、関ケ原)にかけつけ、東国からの道を封鎖。東国から人を集めれないようにしたことでした。

まさに、この関ケ原こそが壬申の乱におけるカギとなって、大海人皇子は天武天皇になりました。

壬申の乱に関する史跡はほぼすべて旧中山道周辺に位置しているのでめぐりやすいです。旧中山道を歩いて西へ進んで黒地川のあたりから壬申の乱の史跡がスタートします。

黒血川から自害峯へ

この黒血川は関ケ原の戦いで大海人と大友の両軍が戦い、両軍の死体で埋まり、川が血のようになったことからくる名前です。今では小さな川ですが、戦いの時にはもっと大きかったんでしょうか。

黒血川。今は小さな川です。

そのまま旧中山道を歩いていきます。少しだけ道を逸れると、三本杉があります。この三本杉は弘文天皇(大友皇子)の墓とも言われていますが、実際はどうなんでしょう。正式には、大友皇子は瀬田の唐橋での大敗後、大津で自害したと言われていますが、もしかするともっと早くに決着がついており、大友皇子が自害していた可能性もあるのかもしれないですね。

ここを上がります。
自害峯の三本杉

中山道を歩いて不破の関へ

このまま中山道を歩き、不破の関へと向かいます。旧中山道はあまり人がいないような場所です。

途中、藤古川がありますが、そこでちょうど大友軍と大海人軍が対峙したと言われています。現在は蛍がきれいなところでもあり、美しいところですが、壬申の乱の時には激戦地だったんでしょうね。

箭先地蔵。大友軍は飲料水を求めてここに井戸を掘ったらしい。
中山道を進みます。
藤古川
藤古川。今では新幹線が通ります。

不破の関

さて、不破の関まで来ました。この不破の関は壬申の乱後に、畿内の人の出入りを管理するために作られた関所で愛発関、鈴鹿関と共に日本最大の関所と知られ、首都圏(畿内)に入るためにはここで厳しいチェックを受けたと言われています。

この関所を境に西は関西、東は関東と呼ばれ、ここが関西と関東の分かれ目ということになりますね。ただ、今では特に関所があるわけではないので、関東も関西も全く同じに見えますが。

不破の関
不破の関。
関から西を見る。こっちが関西。
関から東を見る。こっちが関東。
不破関守跡
すぐ裏にあるのが関守の屋敷跡。

関所というから、小さな警察署のような建物があったのかと思ってしまいますが、調査の結果から実はかなり大きかったようで、周囲は土塁にかこまれていたことが分かっています。今では関所もないので、言われなければ気付かない程ですが。

ちなみにずっと使われたわけではなく、8世紀になると関所の機能は廃止されたようです。

この不破の関近くには不破関博物館があり、そこでこの不破の歴史や壬申の乱について知ることができます。また、関東と関西を比べて本当に関ケ原でいろいろ変わっていることを示した展示もありました。入館料100円なのがなんともうれしいです。それほど大きいわけではないのですが、とても満足でした。

壬申の乱!!
不破関博物館。小さいですが、なかなか魅力的です。
不破の関の北側土塁
現存する不破の関の北側土塁

ちなみに関所の周りには大海を祀った井上神社や他にも大海人皇子が鎧をかけた岩などがあります。関ケ原はあまり発展しておらず、歩いていてとてもきれいなところです。

いったん歩いてみるとわかりますが、関ケ原は南北が高い山にかこまれており、その山々の間を中山道が東西に横切ります。まるで自然の虎口のようです。平野部がある程度大きいことやその平野部にいくつか小さな丘が点在していることも戦に最適の地なんでしょう。

ここで関ケ原の戦いも壬申の乱も起こったのは決して偶然ではないんでしょうね。

兜掛岩。
不破関鍛冶工房跡地
不破関鍛冶工房跡地。関ケ原には茶畑も多くあります。

不破の関周辺はこれだけなのですが、実は関ケ原の駅からさらに東へ歩いて1時間ほど進むと、大海人皇子が陣をおいた桃配山や宮を作った野上行宮跡などがあります。

桃配山は後に関ケ原の戦いで徳川家康も陣を置いたところ。偶然の一致でしょうか。歴史って面白いですね!!

桃配山から関ケ原を見る。

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