板付遺跡【稲作発祥の地】
福岡空港の程近くの住宅地の真ん中に、それが板付遺跡があります。考古学好きなら誰でも知っている遺跡です。
日本初の水田跡
日本では紀元前1000~500年ぐらいを境に縄文時代と弥生時代を区分していました。そして、この縄文時代と弥生時代の区分は土器で行っていました。縄文土器は土器に縄の模様がついているのですが、弥生時代になると縄の模様がありません。また、弥生時代になってから水田耕作が行われたと考えられてきました。
そして、この板付遺跡からも弥生時代の土器とともに水田跡が発見されたのですが、そのさらに下からもう1つの水田跡が発見され、そこで見つかったのが縄文晩期の土器である夜臼式土器。これは日本の水田が縄文時代からすでに始まっていたことを意味するもので、すぐ近くの菜畑遺跡と共に日本最初の水田跡とされています。
また、近くには日本最初期である環濠集落跡も見つかっており、ここで人々が生活を営んでいたことを示す証拠となっています。
板付遺跡
さて、そんな板付遺跡ですが、天神からバスで30分ほどのところにあります。かなり住宅地の真ん中にあるので、ただの公園と見間違えそうです。
1995年に板付遺跡が弥生のムラとしてオープン。小さい公園ですが、全国から考古学好きが集う場所になっています。
さて、この板付遺跡には遺跡、水田、そして博物館と3つのパートがあります。いろいろ面白いことが学べるので、まずは博物館に行った方がいいのかも。博物館を含め、全て無料の施設です。
博物館の隣には水田があり、弥生時代初期の水田を復元させたものが作られています。
この水田は畔などできれいに区画されており、灌漑を設けて近隣の川から水を引いていました。つまり、弥生時代でも現代でもとそれほど変わらない状態で稲作をしていたということになりますね。
水田から縄文時代の土器が出た、というのは何を意味するんでしょう。というのも、何らかの時点で大量の渡来人がやってきて、水田耕作をはじめ、弥生式土器も渡来人が伝えたという一般的な考えは間違いだということになりますよね。
稲作が伝わり、ゆっくりと縄文から変わっていったって感じなんでしょうか。そうなると、少数の渡来人がやってきて古来の日本人と徐々に混ざっていったということでしょうか。
集落跡へ
板付遺跡の集落とは日本最初期の環濠集落。環濠集落とは周りが濠に囲まれた集落です。一般的に濠は周りとの集落との戦に備えてつくられたものとされることも多いですが、ここでは濠の近くに戦いの痕跡が見つからないことから、濠は自衛のためにあるわけではないようです。
となると、この濠も何のためなんでしょう。
集落内にはいくつの竪穴式住居がありますが、これは近くの江辻遺跡で出土したものを復元したもの。
濠跡は出土したものの、環濠内部の居住跡は出土しなかったようですね。
ちなみに環濠の周りを歩いてみると、環濠のすぐ外側に墓地があります。
墓地は環濠の外なんですね。なんでなんでしょう? 理由を考えてみるのもなかなか面白いですね。
なかなかマニアックな場所ですが、やっぱり歴史好きなら一度は訪れておきたいですね!
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