神話と歴史

関ケ原の戦い【石田三成vs徳川家康】

戦国時代といえば、戦ですね!!そしてこの戦国時代の中で最大といわれる戦いが関ケ原の戦いです。有名な戦いではあるのですが、関ケ原の戦いはその登場人物の多さからかなり複雑となっており、背景を知らないとかなり理解しにくいですね。なので、この関ケ原の戦いをできるだけ簡単に説明しようと思います。

※このサイトは関西のブログなので、若干ですが三成を贔屓した書き方になっています。 

関ケ原の戦いに至るまで

五奉行と五大老

秀吉が亡くなったのが、1598年。京都伏見城で亡くなりました。しかし、この時、秀吉の後継者とされた唯一の息子の秀頼はまだ6歳。とても政治ができる年齢ではありませんでした。なので、実際の政治は秀吉の指名した五奉行と五大老が代わりに政治を執ることになりました。五奉行は実際に豊臣を政務を仕切るメンバーで、五大老は有力な大名の連合です。頭脳派と武闘派という感じでしょうか。

五奉行  五大老

石田三成

徳川家康

浅野長政 

毛利輝元

前田玄以

上杉景勝

増田長盛

前田利家

長束正家

宇喜多秀家

 

勢力を伸ばす徳川家康

しかし、五大老の中でも力が強いのが『狸親父』こと徳川家康。彼は江戸の大半を治めていました。秀吉が死ぬとすぐに、まるで待ち望んでいたかのように豊臣家を無視し自身の勢力を拡大するような行為を行います。

この家康の振舞いに対して、忠義心の強い石田三成は不満を抱いていくことになりました。加賀の前田利家はこの犬猿の仲ともいえる2人の仲を何とか保っていましたが、利家が1599年に亡くなると二人の仲は一気に悪化していきます。

前田利家の像
金沢城の前田利家の像

同年、五大老の加藤清正や福島正則ら七人は石田三成を暗殺しようと企てます。三成は家康の仲裁でなんとかこの危機を逃れることができましたが、この事件をきっかけに三成は彦根の佐和山城で謹慎することになってしまいました。もちろん、これは三成の家康に対する大きな恨みにつながります。

そして、三成もいなくなると、家康にはもはや敵なし。反対しそうな勢力に次々と難癖をつけて討伐しようとします。前田家は従う態度を見せましたが、上杉は家康に反抗。家康は上杉を謀反の疑いありと決めつけ、1600年6月上杉討伐のため東北へと向かいます。

関ケ原の戦いとうとう開戦へ

しかし、光成はこの家康がいなくなった瞬間をチャンスとみて、三成は西国の兵を集め、1600年7月、家康討伐の軍を大阪で募り宣戦布告。自身は武将からの信頼があまりないからということで、総大将として毛利輝元をむかえ、さっそく家康の伏見城などを攻撃し、最終的に岐阜県の大垣城に入ります。

大垣城
大垣城。現在の城は復元されたもの。

この一報を聞いた徳川家も、関東の小山で軍議を行い、引き返すことを決定。多くの兵をひき連れて西へ向かい始めますが、ここで一目散にいかないのが家康の憎いところ。自身はしばらく江戸城にこもり、仲間集めのために手紙を書きまくり、ようやく江戸城を出発します。

そして、西軍が大垣城を出発すると、すぐ近くの関ケ原に向けて進軍しました。。

関ケ原の戦い

東軍vs西軍

両軍は1600年9月14日関ケ原でとうとう直接対決になりました。

関ケ原に先に到着したこともあり、西軍の多くは見通しのいい山の上に布陣。一方、東軍は山の下に布陣しています。東軍は西軍にほぼ包囲されるような形となり、地形的には西軍がかなり有利な陣形となりました。

笹尾山から見た関ケ原
三成の陣があった笹尾山から見た関ケ原。

この戦にはかなり多くの武将が参加していますが、西軍は石田三成を中心に主に以下の武将で構成されています。数は西軍の方が若干多いのですが、西軍には戦に参加していない人物も多いです。

西軍  兵数  
石田三成 5,000

西軍の中心人物。

毛利輝元 16,000

西軍の総大将だが、大阪城から動かず。代わりに毛利秀元らが参戦。

小西行長 6,000

キリシタン大名。

宇喜多秀家  17,000

東軍福島正則と激戦。

島津義弘  1,600

戦終盤で戦地の真ん中に取り残され、敵陣を横切り脱出。

大谷吉継 600

三成の一番の理解者。関ケ原の戦いで戦死。

 

小早川秀明  15,000

西軍を裏切り東軍に。

島左近 
1,000

三成の右腕として活躍するも関ケ原の戦いで戦死。

一方、東軍です。かなりの豪傑が多いです。

東軍  兵数  
徳川家康 30,000

東軍の大将。

加藤清正 N/A

謹慎中のため、参加できず。九州で西軍の城を攻める。

福島正則 6,000

戦後、広島を与えられるも無断修築がばれて没収。

細川忠興 5,000

妻ガラシャは三成に人質に取られる間際に自殺。

藤堂高虎 2,500

築城の名手。死ぬまで家康に尽くした。

黒田長政 5,400

黒田官兵衛の息子。島左近を討ち取る大功績をあげる。

本多忠勝 500

戦国最強武将とも。

井伊直政 3,600

深紅の甲冑がかっこいい。関ケ原では重傷を負う。

当日は霧が濃かったのですが、井伊直政の発砲と共に合戦が開始されます。

桃配山
家康が最初に陣を置いた桃配山からみた関ケ原。合戦の中心地からは少し離れています。

裏切りが相次ぎ、戦いは終了へ

しかし、戦いは西軍有利には進みませんでした。というのも、実は西軍の多くの武将は事前に東軍として寝返るように決めていました。特に毛利軍はなかなか動こうとせず戦いが始まっても、どちらで戦うべきか決めかねていたようです。

西軍として参加していた小早川秀秋もその一人。どちらについて戦おうか決めかねていました。しかし、彼は動かないことに怒った家康からの砲撃を受け、焦った秀秋は西軍の大谷吉継を裏切り攻撃し始めます。大谷が総崩れとなり、さらに脇坂安治らも寝返って小早川に加勢すると、大谷がついに玉砕。西軍は総崩れとなり、もはや負けを悟った三成は米原方面へと敗走します。

大谷吉次の墓
大谷吉次は関ケ原で戦死しました。

ここまでわずか半日。戦国時代で最も大きな戦いがあっという間に終了です。長い戦いは10年近くにもなったりするので、一瞬で決着がついた感じです。

関ケ原の戦いその後

関ヶ原の乱後、西軍の大将である石田三成は最後まであきらめませんでしたが、残念なことに隠れているところを捕らえられ、京都で打ち首になりました。また、上杉家や毛利家などほかの多くの西軍の武将は領地を減らされたりしました。東軍に寝返った人の多くも処罰されています。

六条河原
現在の六条河原。ここで幾多の武将が処刑されました。

この3年後の1603年。家康は征夷大将軍となり、江戸で江戸幕府を開きます。そしてとうとう、家康が豊臣家の恩を忘れ、豊臣秀頼を滅ぼしに『大坂の陣』を始めます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です