竹内街道を歩く1: 堺~古市まで
堺から奈良の長尾j神社まで結ぶ竹内街道。この街道は日本ができて間もないころ、まだ大阪や奈良といた都市すら存在しなかった時代に、外国の使節団やさらには聖徳太子などの官僚らが歩いた日本で初めての官道と言われています。今では歩いている人は少ないですが、この竹内街道こそ最も古い街道の1つです。
※ここでは竹内街道は伊勢まで続く伊勢街道の一部とされています。伊勢街道の全行程はこちら。
竹内街道
堺から大泉公園
竹内街道の始まりは堺の大小路交差点。まだ大阪が町としてできていないころ頃から存在するので、大阪市内は通りません。大小路交差点は堺駅から歩いて5分ぐらいの場所にあります。目の前には紀州街道が南北を通過しており、この紀州街道周辺が近世には堺の中心として発展してきました。
堺は応仁の乱以降自治都市として発展し、日本の文化の中心地になっただけでなく、南蛮貿易では日本一のお金持ちの町にもなった都市で、見どころはかなり多いですが、先を急ぐので堺の中心には立ち寄らずに行きます。
南海高野線の堺東駅からはを東へ向かいます。堺東駅からは小さな道を入っていくので、ちょっと道がややこしいです。高野街道、熊野街道、竹内街道の追分も堺東駅からすぐの場所にあります。今では何もない場所ですが、こんな有名な街道が集まる場所なので、きっと昔は賑やかな場所だったんでしょうね。
竹内街道はここから世界遺産にもなった仁徳天皇陵の近くを歩いて東へ向かっていきます。高いビルが多いので、なかなか気づかないのですが、歩道橋に上がればちらっと見ることができます。実はこの辺りは三国ヶ丘と言って少し丘になっており、仁徳天皇陵はこの丘の上に作られています。この三国ヶ丘が仁徳天皇陵の場所として選ばれたのは、外国からやってくる使節が上陸するときに船の上からよく見えるだけでなく、彼らが奈良に向かう時に通る竹内街道がすぐ近くにあるからです。
しばらく堺の住宅街の中を抜けていくと、金岡地区には金岡神社があり、巨勢金岡という絵師が祀られています。
金岡神社のすぐ近くには大泉公園があり、かなり大きな府立公園です。大泉公園は「おおいずみ」公園ですが、近くに大仙公園もあるのでややこしいですね。
大泉公園から松原
大泉公園を出ると、川を越えて松原市へと入っていきます。松原は南河内を代表するような街で、竹内街道はこの松原市を東西に横切っていきます。松原市も住宅街がメインといった感じで、街道らしさを表すのは昔に作られた街道を表す石碑ぐらいです。
18代の反正天皇は松原に柴籬宮を作り、現在その地には柴籬神社が立つのですが、竹内街道から20分ほど逸れたところになるので、行きませんでした。
松原から羽曳野
羽曳野市内に入るとまたしばらく住宅地ですが、伊勢橋が架かる東除川を渡ると少しずつ坂になって上がっていきます。この辺りは羽曳野丘陵と言われ、周りより少し高いところに位置しています。
灯篭があるところには河内三太子として知られる野中寺もあります。聖徳太子と関連の深い、歴史のあるお寺です。
野中寺を過ぎたあたりからは古市古墳群のエリアで、多くの天皇陵が登場します。この辺りが高くなっていることを考えるときっと高いところからいろいろな古墳を見ることができたんでしょうね。やはり百舌鳥古市古墳は竹内街道を意識して作られたことがはっきりわかります。竹内街道沿いにある峰塚公園は高台に位置しており、そこから見るとかなり多くの古墳を見ることができます。古市古墳群では巨大な古墳の数は百舌鳥古墳に比べると多く、密度が高いです。ただ、日本で二番目の大きさである応神天皇陵(誉田御廟山古墳)は竹内街道から20分ほど少し離れたところにあります。
白鳥陵
古市古墳群の中で最も有名なのがこの軽里大塚古墳(白鳥陵)でしょう。規模としては190mなので、古市古墳の最大の応神天皇陵と比べるとそれほど大きいわけではないのですが、ここに埋葬されているのはあのヤマトタケルであり、神武天皇が西日本を制圧したのに対し、ヤマトタケルは関東を制圧した人物です。古事記では、彼は関東を制圧後、その帰りに伊吹山で白いイノシシに襲われ重傷を負うと、故郷の奈良に帰ることを夢見ながら三重県の亀山でなくなりました。そこから白鳥になり飛び立って、この地に降りたと言われています。
この白鳥陵から歩いてすぐのところが近鉄南大阪線の古市駅です。堺から歩いてだいたい5時間程度で、12~3キロの距離なので、普通なら3時間程度で十分歩けるはずなんですが、多くの古墳や寺社などの見どころがあり、いろいろ立ち寄っていたらこんな時間になってしまいました。
次は古市駅から竹内峠を越え、長尾神社まで歩こうと思います。
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