観音寺城【日本五大山城】
戦国時代、近江という場所は特に重要視された場所でした。のちに近江は信長によって制圧され、安土城が建てられましたが、信長がやってくる前にこの地を治めていたのは六角氏でした。
六角氏は繖山を本拠地とし、山頂付近には観音寺城を築きました。城に石垣を作るというコンセプトがない時代に石垣を取り入れたとされており、今でもその石垣は一部が残っています。
観音寺城
観音寺城へ登る
観音寺城に行くには、➀ 観音正寺からのルート ➁桑実寺から上がってくるルート、③ 追手道があります。中でも、正規のルートとされるのが追手道。最近ボランティアの方たちの活動により、追手道が整備されました。
とはいうものの、山の上まで歩くのは大変ということで、大半の人は観音正寺まで車で来るようです。確かに近くには安土城もあるので、車で来たほうが確かに効率よく移動できるのかも。
そもそも追手道までは最寄りの安土駅から徒歩1時間ほどかかり、さらに登城にも1時間かかります。ここは小谷城のようにクマが出ることはないようですが、なかなか大変なハイキングです。
追手道は山裾の御屋形跡からはじまります。すぐ近くには観音正寺の参道もあり、どっちで行ってもお城にたどり着くんですが、せっかくなので正規ルートとなる追手道で行きたいですね!!
御屋形跡は六角氏の屋敷があった場所でした。山の上の城は結構遠いので、普段の生活は山の下にある館で行っていたんですね。
高石垣が復元されていますが、当時の石垣もこんなに高かったんでしょうか。本当に高い技術があったんですね。
さて、ということで、せっかくなので、登城の正規ルートとなる追手道からスタートです。やっぱり山城を味わうためには麓から登るのが一番ですね。
なお、追手道は一瞬だけ林道に出るんですが、基本的にずっと山道です。30分ほど歩くと、大石垣のある池田丸の下のあたりに出てきます。
池田丸の南には大石垣が並んでいます。ここの石垣は本当に見事ですね。築城から400年以上もたちますが、昔の城の大きさを伝えています。
ここからの見晴らしはすごくよく、眼下には平野が広がり、その真ん中を新幹線が横切っています。実は五街道のうちの1つである中山道もこのすぐ下を走っているんですよね。
となると、この観音寺城は交通を見下ろすことができる、非常に重要な位置にあるということがわかります。
大石垣まで来ると本丸はもうすぐなんですが、その手前には小さめの曲輪が多数あり、平井丸や池田丸など家臣の名前が付けられています。
観音寺城では多くの家臣はこのように山の上に住んでいたようです。江戸時代になると城内に家臣を済ませるのはなんら不思議ではないのですが、これは六角氏の試みが初めて。
なお、曲輪は全部で100近くあったといわれており、それらが互いにつながりあい、まるで迷路のようです。この城にはおそらくまだまだ分かっていない曲輪や土塁なんかもあるんでしょうね。
そしてなにより、観音寺城のみどころといえば石垣。信長が安土城を築く前から石垣を多用した観音寺城を作っていました。そのため、山の中には遺構と思われる石垣が多数存在し、その状態もかなりいいものもあります。
これらの石垣を見ていると、なんとも強固なお城を想像してしまうのですが、肝心の堀はないんですね。堀がないとなかなか防御するのは難しそうです。
さて、そして平井丸から三の丸を過ぎるととうとう本丸です。
本丸へ
さて、とうとう本丸です。残念ながら、本丸に関する記録はほとんど残っていないので、どんなお城が立っていたのかは全くの不明です。もっと言うと、伝本丸なので、ここが本丸かどうかも定かではありません。ただ、付近には多くの遺構がのこっており、かなり立派だったことは容易に想像できます。
立派な城だったとはいえ、この観音寺城を守っていた六角義賢・義治親子は1568年、信長に攻められるといとも簡単にこの城を放棄して、甲賀方面に逃げ、後に廃城。
すぐ近くには安土城もあるのですが、安土城よりずいぶん大きいお城でした。安土城が観音寺城よりも後に作られたということを考えると、もしかすると、六角氏はあまりも城を大きくしすぎたために、城郭をコントールできなくなってしまったなんてことがあったんじゃないでしょうか。
ということで、観音寺城を本丸まで来ました。ここまで来ると、観音正寺まではすぐ。観音正寺の参道を下っていくと、追手道の入り口のすぐ近くに出てきます。
なかなか登ってくるのも大変でしたが、さすが山城。ハイキングをしながら歴史を味わうことができます。
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