和歌山県

稲むらの火【浜口梧陵】

日本と言えば地震大国。毎年大きな地震が来ていますが、しかし特に怖いのは地震ではなく津波。巨大地震の後の津波は一瞬でたくさんの家屋を破壊し、多くの人々の命を奪います。そんな津波に対する防災対策で最もよく語られる人物と言えば、稲むらの火で知られる、和歌山広村の『浜口梧陵』です。

安政地震

数ある地震の中で日本人が最も恐れる地震は南海・東南海地震ですね。四国辺りを震源とする南海地震と静岡辺りを震源とする東南海地震は南海プレートで起こる地震で、今までに100年~150年を周期に実際に地震が起こってきました。

やっかいなのはこの2つの地震は同時に起こることが予想されており、2つの地震が同時に起こった場合、東京、名古屋、大阪に地震そして津波によって甚大な被害をもたらすと予想されています。

和歌山の電車の津波対策
和歌山の電車も津波対策ばっちりです。

そして、1854年11月4日。この南海地震と東南海地震が同時におきたことがありました。まず東南海地震(安政東海地震)。震源は静岡沖でマグニチュードは8.4。津波の高さは最大20m程度とされています。この地震は東海地方や伊勢に甚大な被害をもたらし、関西では震度は5程度で、それほど大きな津波も来ませんでした。

しかし、その32時間後の11月5日の夕方に南海地震(安政南海地震)が発生。マグニチュードは8.4で、関西地方の都市を最大15mほどの大津波が襲いました。関西の各地で甚大な被害をもたらし、特に大阪では前日の地震で船に避難している人が多くいたため、津波とともに流されて、多くの人が亡くなったと言われています。

安政地震津波の碑
大阪安政地震津波の碑。「地震があったら、絶対に船で避難してはいけない」と書かれています。

この2つの地震で死者は数千人と言われ、日本で最悪の結果となった地震の1つです。

稲むらの火

南海地震で特に大きな被害を被ったのが和歌山県。その中でも村人の多くが助かったという奇跡的なエピソード「稲むらの火」が残るところがあります。その場所は、しょうゆの発祥地で知られる和歌山県湯浅町のすぐ南にある広川町は昔は広村と呼ばれていました。

そんな広村に住んでいたのはしょうゆで全国的に有名なヤマサの七代目浜口梧陵。銚子からちょうど広村に帰省していました。そのさなかにちょうど東南海地震が起き、大きな津波が広村を襲いました。

広川
湯浅(左)、広川(右)。海と山に囲まれたきれいな街です。

地震が来てから津波到達まではある程度の時間があるので、すでに高台に避難している人もいたようですが、中には逃げ遅れてしまい、津波の第1波にのみ込まれた人もいました。

そして、津波が襲ったのは夜なので、あたりは真っ暗。どこに逃げれば良いのかもわかりません。

梧陵はそんな逃げ遅れた人の為に、イネをかって高く積んである稲むらを燃やし、高台の廣八幡宮神社までの道のりを示しました。結果的に逃げ遅れた人たちも無事に避難することが出来て、広村では村人の9割近くが生存することができたと言われています。

稲むら
稲むら。刈った稲を高く積んだもので、今でも田舎で見かけることがあります。
廣八幡宮
廣八幡宮

また梧陵は津波に襲われたとの町は壊滅状態を見て、率先して避難者用の小屋を作ったりして、被害者の救援に当たりました。また数多くの事業を行い、村人を雇うことで、村人の離散を防ぎました。

そんな中でも今でも残っているのは港に残るのは梧陵らが作った広村堤防。土を積み上げた堤防で、今後の津波に備えてつくったものです。この堤防は完全に津波を防ぐことはできないものの、のちに来た昭和南海大地震の際には助けとなりました。

広村堤防
広村堤防
広村堤防
5mぐらいの高さがあります。

梧陵はこの後も様々な人を助ける事業に献身し、初代和歌山県議会の議長を務めるなど大きな功績を残しました。

彼は今でも広村のヒーローとして、そして津波防災の先人として教科書にストーリーが載るなど、日本人の心の中に残っています。

浜口梧陵の銅
浜口梧陵の像

稲むらの火

住所

 

 

ウェブサイト

 

 

行きかた

湯浅駅から徒歩30分程度

 

歩行時間の目安

2時間程度

 

入場料

 

そのほか

☆☆ (コアなファンにはおすすめ!)

稲むらの火資料館 (月曜日休み) でも多くのことを学ぶことができます。また、実際に現地を歩いてみると津波の勉強にもなります。

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