弘川寺【「桜の歌人」こと西行のゆかりのお寺】
日本といえば桜ですね。日本の長い歴史において、桜に関する人物やできごとは多数あるんですが、その中でも最も象徴的な人と言えば、「桜の歌人」こと西行になるでしょうか。
そんな西行が愛したお寺が大阪にある弘川寺です。
弘川寺
西行は1118年に、非常に裕福な武士の家庭に生まれ、18歳の時には北面の武士になるようなエリートだったんですが、22歳の時に突然出家。この出家の理由はわかっていません。そして、西行は様々なところを旅しながら、各地で山里に小さな庵を作って、仏堂の修行に励みました。
晩年には西行は空寂上人を慕って、この弘川寺に住むようになり、この地で亡くなったと言われています。
そんな弘川寺の創建は古く、665年に役行者によって開かれており、812年には弘法大師がこの寺を再興しました。
本堂から少し離れたところには西行の記念館がありました。西行って、実は関西のいろんなところで伝承があり、かなり有名なんですよね。特に桜に関する伝説が多いです。
ちなみに西行記念館のすぐ近くに天然記念物の樹齢300年とも言われる海棠が植えられているのですが、海棠が咲くのは桜より結構遅め。来た時には海棠は全く咲いていませんでした。
西行桜山周遊路
西行のお墓がある西行の桜の道へは、本堂のわきの道を進んでいきます。西行の桜の道にはとても多くの桜が咲いていて、とてもきれいです。
西行は日本中を旅のする中で、たくさんの和歌を残しました。その中でも桜に関する和歌のうちの1つにこのようなものがあります。
「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」
(どうか、春の、桜の花の下で死にたいものだ、ちょうど釈迦が入滅した2月の満月のころ)
この和歌は西行が死ぬ10年前に読まれたと言われていますが、この歌の通り1190年に訪れていた大阪奥河内の弘川寺にて、咲きほこる桜の下亡くなりました。
その後、江戸時代になって西行を慕った似雲が弘川寺に移り住み、西行の墓を発見。西行の墓の周りにたくさんの桜を植え、自身も「花の庵」を作って移り住んだと言われています。
さて、西行のお墓の前からさらに山を登ると西行桜山。
桜が山の景色といい感じに相まってとても美しいです。平野で見る桜もいいですが、山で見る桜も本当にきれいです。
弘川寺のアクセス情報
住所 |
大阪府南河内郡河南町弘川4-3
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行き方 |
富田林駅から金剛バスで30分ほど。「河内」バス停から徒歩15分ほどです。
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営業時間 |
9:00~17:00
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拝観料 |
無料(記念館は500円)
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そのほか |
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