京大坂道を歩く【高野山への参詣道】
大阪や京都から歩いてきましたが、長かった高野街道ももうすぐ終了となりました。今日は学文路駅から京大坂道を歩いて、高野山の直前の極楽橋までを歩きます。深い山の中を行きますが、ずっと舗装された道で、どちらかと言うと街道歩きって感じです。
京大坂道
京大坂道が始まるのは南海高野線の学文路駅の少し手前。始まりの道が少し小さいので見落としやすく、注意が必要です。ここから女人道までは9.5km。結構近いですね!!参詣道でも最も歩きやすい道として知られており、黒河道や町石道よりも人気だったようです。
初めは結構な坂を上っていきますが、舗装されているのでそれほど体力を使わずに行くことができます。
坂の上には学文路刈萱堂がありました。刈萱堂は刈萱と呼ばれるお侍さんと彼の息子である石堂丸の悲しい話です。
石堂丸は高野山に出家した父の刈萱を母と訪ねてきて、母をこの学文路刈萱堂に残し、一人高野山へと行きます。高野山で刈萱と偶然遭遇するのですが、刈萱は修行中の身であり、自身が父であることを認めず、息子を追い返してしまいます。
その後、石堂丸は学文路に戻ってくるも母は亡くなっており、結局石堂丸は父である刈萱の下で、父であることを知らずに僧として修業しました。
刈萱堂からは大きな道を歩いていきます。この辺りは看板もあるので道に迷わないでしょう。小さな道に入るところもあるので、看板を見落とさないよう注意です。
どんどん田舎な景色になってきました。学文路からもう結構上がってきたって感じでしょうか。坂を登りきると今度は河根の集落に向けて、下り始めます。
河根の集落
坂を下りてきて、河根丹生神社と日輪寺を過ぎると、河根(かね)という集落に出てきました。
高野線に乗っていると、ちょうど高野下駅のあたりになるんでしょうか。駅からは少し離れていますが、山の中にこんなに大きな集落があるのは意外です。宿屋もあるので、この地は高野参詣の人たちで昔はかなりにぎわっていたんでしょう。
この高野街道こそ高野山への中心的なルートだったことがよくわかります。
紀伊神谷を経て、高野山へ
河根の集落を出るとすぐに千石橋があり、この橋の袂に二里石があります。ここから女人道まで二里。結構すぐですね。橋を渡るともう高野町。
千石橋を渡ると、ここからが本格的に大変になってきます。ここから女人堂までほぼずっと登りです。途中『作水坂』と呼ばれる急な坂もあります。ラストスパートですね!
この辺りは道が細いですが、意外と結構交通量はあります。高野山に行く人なんでしょうか。車一台がぎりぎりとれるような道で、大きな車が来たら当たりそうなぐらいです。すれ違う時は要注意です。
しかし、ここ一方通行じゃないんですね。対向車が来たらどうするんでしょうか。
こんなところに日本最後の仇討の場がありました。1871年に赤穂藩士の村上兄弟が父殺しの仇を討つために、同じく赤穂藩の西川一派78人をここで待ち伏せして襲いました。
なんと殺した犯人は処罰されなかったそうですが、今では信じられないですね。
そういえば、最後の仇討の場って熊野古道の和歌山県と大阪府の県境にもありました。
紀伊神谷の集落
車道をしばらく行くと神谷の集落に来ました。この神谷の集落は高野山のすぐ近くの宿場として、かなり栄えていたようですが、南海高野線ができた後はこの高野街道を通る人がいなくなり、今は宿場もお店も全くありません。
紀伊神谷がすぐ近くにありますが、平均乗降人員は9人とかなり少ないようです。
集落はほとんど人の気配がないほどひっそりとしていますが、木々に囲まれた本当に美しいところです。
神谷の集落を抜けると電車の車輪がきしむ音が聞こえてきました。ここから南海高野線に沿って歩くと、すぐに極楽橋です。
極楽橋
そしてとうとう極楽橋に到着です。学文路から10キロほどのはずですが、意外と3時間近くかかってしまいました。ただ、町石道や黒河道と比べると、この道は断然歩きやすかったです。この歩きやすいと言う理由こそ、この高野街道が高野参詣の道として最も好まれた理由なんでしょう。
ハイキング好きには町石道がおすすめですが、この高野街道も沿道には地蔵や古い建物なども多く、なかなか楽しめる道でした。山だけでなく歴史的なものなども見たいという人には町石道よりこっちのほうがいいのかも。
この極楽橋のすぐ目の前が南海高野線の終点となる極楽橋駅。ここからケーブルカーに乗って高野山へと上がっていきます。
高野街道はここから最後の難所と呼ばれる不動坂を上がり女人道まで向かいますが、新道の不動坂と旧道の不動坂があり、新道はずっと舗装された道。そっちを歩けば結構楽に歩くことができます。女人堂までは歩いておよそ1時間ですが、新道なら45分ぐらいで行けます。
コメントを残す