西高野街道を歩く【堺から河内長野まで】

弘法大師の聖地、高野山。高野山へと続く道と言えば町石道が有名ですが、実は古くから参詣に使われた街道が高野街道として残っています。高野街道と言っても実は様々なルートがあるのですが、中でも堺から続く西高野街道は大阪から住吉大社を経て高野山に行く人によく使われたと言われます。今日はそんな西高野街道を始まりの堺から河内長野まで歩いてみます。

西高野街道

堺から中百舌鳥へ

西高野街道が始まるのは大阪市ではなく、堺市。南海堺駅付近の大小路から河内長野市までです。河内長野市で石清水八幡宮から続く東高野街道と合流し、高野山まで続きます。河内長野までは距離は18km。それほど長くないので、朝早くに出れば一日で歩けてしまいます。

まずは堺の中心地でもある大小路交差点から堺東駅の方へ大小路筋を歩き、高野線を越えていきます。大小路交差点からは最古の官道である竹内街道も続いており、しばらくは西高野街道と並行して走ります。

大小路交差点。目の前を横切るのは紀州街道です。
大小路交差点には西高野街道の石碑があります。

さて、ここに来たのは何回目でしょうか。ここで竹内街道は左へ、熊野街道と高野街道は右へと行きます。重要な街道がいろいろ集まっているところなので、昔は賑わっていたのでしょうが、今はあまりそんな感じはなく普通の住宅地って感じです。

この分岐点の右手には地蔵堂があり、その隣には女人道まで十三里と書かれた道標があります。この道標は1850年ごろに建てられたもので、高野山の神谷にある一里の道標まですべてが現存しており、西高野街道や高野街道を歩くときにはいい目印になります。

竹内街道ともここで分岐します。
女人道まで十三里の道標石

全長850mで世界遺産にも登録されている仁徳天皇陵を見ながら三国ヶ丘駅方面へ向かいますが、しばらくはまだ街道らしい感じはあまりないでしょうか。

この辺りには仁徳天皇陵以外にもたくさんの陪冢がありますが、どれも入るのが禁止されているのが少し残念。

仁徳天皇陵
仁徳天皇陵。ここで熊野古道と分岐。三国ヶ丘駅方面へと向かいます。

三国ヶ丘は摂津、河内、和泉の三つの国がこの地で接していることに由来しています。近くには方違神社があり、方違えの神社として信仰を集めています。また、大阪人にとっては三国ヶ丘は大阪では結構な高級住宅地としても有名ですね。

三国ヶ丘駅を越えると、細い道に入っていき、少しずつ古い建物が出てきて街道らしい雰囲気になってきているような気がします。

街道っぽい感じです!!
百舌鳥のクス。樹齢は800年から1000年だとか。
中百舌鳥駅。意外と近かった気がします。

大小路から歩いて一時間くらいで中百舌鳥に着きました。地下鉄御堂筋線の終点の駅で、泉北高速鉄道もこの駅から乗ります。なのに南海線の急行が止まらないっていうのは面白いですね。御堂筋線に乗り換えさせないためなんでしょうか。

西高野街道が通る南口には特に何もないのですが、御堂筋線がある北口の方へと行けばかなり発展しています。

中百舌鳥から狭山へ

この中百舌鳥駅から、大阪公立大(大阪府大)や白鷺公園を通っていきます。大阪府大は大阪検定の会場として何度も来ました。白鷺公園は菖蒲がとても綺麗な公園です。

そして、中百舌鳥の辺りも街道らしい雰囲気がある道。意外としっかりと残っていますね。

大阪府立大。大阪公立大学に変わりました。
白鷺公園の菖蒲。
街道らしい感じですねぇ!!
地蔵堂。手前に高野山女人堂まで十二里を示す道標があります。

この地蔵堂から少し逸れたところに、出雲大社大阪分祀があります。出雲大社は行ったことがあるのですが、ここは初めて来ました。思ってたよりもずっと大きいです。初詣に来る人も多いんでしょう。

歴史は意外と新しく、戦後直後に出雲大社から分祀されてできた神社です。

出雲大社大阪分祀
大きなしめ縄。出雲大社みたいです。

西高野街道に戻って進んでいきます。狭山へと進んでいきますが、ここ街道らしい細い道。

街道で見るような古い家はそれほどないのですが、地蔵堂などが多く残されており、なんとも歴史を感じる道のりです。

中茶屋の地蔵
延命地蔵菩薩。『左かうや、大み祢。右たきたに、金剛山』とあります。

しかし住宅開発がかなり進む堺市なのにここまで残っているのはすごいですね。地元のみなさんの協力の結果なんでしょうか。

もうすぐ堺市を抜けて狭山市。なかなか遠かった気がします。

興源寺のクスの大木。
太神宮の灯篭も。
高野山まで十一里。
右は陶器山とあまの街道。天野山金剛寺のほうへと向かう道です。

狭山から 河内長野へ

西高野街道ももう堺からだいぶ来ました。しばらくは堺市と狭山市の境界線上を歩きますが、狭山市に完全に入ってしまえば、風景もどこか田舎になったような感じがします。

途中大きな下り坂があるのですが、ここから見る景色はきれいです!『おわり坂』と呼ばれる坂をどんどん下っていき、坂の一番下で四天王寺から続く下高野街道と接続します。この辺りは陶器山丘陵と呼ばれ、周りと比べると少し高台になっていたんですね。

陶器山というのもなかなか面白い名前ですが、実はこの辺りには日本三大古窯の1つであった陶邑窯の跡が発見されており、古代はかなり大規模に須恵器の生産がおこなわれていた場所だったんですよね。

ここはなかなか景色がきれい。右にうっすら見えるのが近大医学部。
左から降りてきました。右は下高野街道。
太神宮(伊勢神宮)の灯篭がありますね。
玄晶法師地蔵尊。『酒かけ地蔵』とあるのは、玄晶が酒が好きだったから。

河内長野

ここからしばらく行くと、河内長野です。河内長野は難波から急行で30分ぐらいということもあり、住宅地となっているところが多いのですが、それでも西高野街道には灯篭や地蔵堂などの歴史を感じさせるものがしっかりと残っています。

途中、上神谷(にわだに)妙見山と書かれた道標がありました。これは上神谷の妙見山感応寺のこと。今ではあまり聞かない気がしますが、結構有名なお寺だったみたいですね。

河内長野市です。
1776年の太神宮の灯篭。
ここで杭全神社から来た中高野街道と接続します。左が西高野街道、右が中高野街道。

西高野街道と中高野街道の合流地点から少し西に逸れると盛松寺。弘法大師が槙尾山に行く途中で昼食をとった地とされ、その時に柚子みその製法を伝えたとされています。

河内長野というと観心寺や金剛山、サイクリングセンターなど魅力が本当に多いのですが、実は西高野街道も歩いてみると本当にたくさんの魅力があることがわかります。

河内長野の少し違った面が見えてきて面白いですね。

街道なのでまーっすぐな道です。
晴明塚。安倍晴明が所蔵していた書物が埋められているんだとか。
阿弥陀寺の石仏群です

さて、国道310号線を渡ると、九里の道標石があるのですが、西高野街道沿いではなく、認定こども園の裏側に移されているので少し見つけるのがややこしいです。

最後に短い河内長野の商店街を抜けると、河内長野駅。ゴールです。ここで東高野街道と西高野街道が合流し、ここから高野街道となって金剛山地を超え、和歌山県へと入って聖地高野山を目指します。

駅前の商店街。もう幾度となくこの場所に来ました。
ここから高野街道となって高野山を目指します。

堺から歩き始めて4時間程度でした。結構近かった気がしますね。アップダウンもほとんどなかったので、体力的にもほとんど疲れませんでした。でも高野山まではまだまだですね!!

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