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関ケ原を歩く 【西軍編】 | Kansai Odyssey

関ケ原を歩く 【西軍編】

岐阜県と米原県の境にある関ケ原。この地こそ、日本で最も有名な戦いである関ケ原の戦いがあった場所です。今では戦いの当日のことはほとんど何も残っていませんが、奮闘した武将たちの史跡をめぐってみると、合戦に参加しているかのような気分を味わえて楽しいですよ!!

関ケ原を歩く【西軍編】

関ケ原は南北を高い山にかこまれ、その間の平地を東西に中山道が通過します。まさに自然の虎口のような作りになっており、戦いには非常に適した地だったんでしょう。東軍と比べ、西軍は陣跡の多くが小高い丘の上か山頂にあります。

なお、関ケ原には至る所に陣跡を表す看板がありますが、一応地図はあったほうがいいのかも。道が狭いので、車でくることはあまりお勧めしません。

関ケ原古戦場の石碑

石田三成陣跡

関ケ原の駅から歩いて15分ほどで笹尾山。山とはいえ、ただの小高い丘ですが、この笹尾山に西軍の中心人物となった石田三成の陣がありました。5分程度で登れてしまう山で、陣跡からは関ケ原が完全に見渡すことができます。この史跡が関ケ原では最も人気があり、人も結構いました。

三成はここに6000の兵で布陣したようですが、少し狭いですね。何人かは麓にもいたんでしょう。

石田三成陣跡
馬防柵が復元されています。
陣跡から見た関ケ原の景色。それほど高さはない山です。

笹尾山のすぐ麓には島左近の陣跡があります。島左近は三成の右腕となって活躍した人物ですが、関ケ原の戦で近くに布陣する黒田長政と交戦し、討ち死にしました。それほど山は高くないので、三成は左近がやられるところを間近で見てしまったんでしょうか。

なお、小早川秀秋などの裏切りで大谷隊が壊滅。次々と討ち取られる仲間を見て、三成は負けを確信し、背後にそびえる伊吹山方面へ逃亡しました。伊吹山を超えるとすぐに三成の佐和山城があります。

島津義弘

三成の笹尾山から南に10分ほど歩くと島津義弘陣跡です。陣は神社の森の中にあります。

島津義弘は『鬼島津』と呼ばれており、西軍の有力なメンバーの1人。ただ、彼はもともと東軍に属する予定だったと言われることもありますが、実際には反徳川軍の人物でした。ただ、関ケ原の戦いでは積極的に討ち取ろうとするのではなく、どちらかというと様子見のような立場だったようです。

島津義弘陣跡
島津義弘陣跡

あまり戦意がなかったようで陣を守ることに徹底しました。しかし、三成が撤退したという知らせを受けておらず、戦地で逃げ遅れて敵に囲まれます。しかし、その中でもひるむことなく家康の陣近くを正面突破して逃げ、さらに逃げる際に徳川四天王の1人である井伊直政に重傷を負わせることに成功しました。

小西行長陣屋跡

島津陣屋跡からほんの少し歩くと小西行長陣跡です。背後には北天満山がそびえます。この辺りはちょうど開戦地として知られており、井伊軍が先鋒を任されていた福島軍を通り抜け、宇喜多軍に発砲し、宇喜多軍もこれに応じて発砲して開戦となったと言われています。

関ケ原開戦地

小西行長は敬虔なクリスチャン大名。もともと父が堺の商人であり、宇喜多秀家にスカウトされ武士に転向します。秀吉のもとでは朝鮮出兵で大きく活躍し、石田三成とも仲良くなったので関ケ原では西軍として参加します。

朝鮮出兵で疲弊していたこともあり、関ケ原の乱では4000程度の援軍でした。様子見ではなく最後まで果敢に戦いますが、残念ながらあまり活躍できず、最終的には捕まってしまい、京都の六条河原で処刑されます。

小西行長陣跡

宇喜多秀家陣跡

小西陣屋跡から少し森の中に入っていくと宇喜多秀家陣跡です。背後には南天満山がそびえ、その麓にある天満神社付近に宇喜多秀家は布陣しました。

天満神社
天満神社の社殿。小ぶりな神社です。

宇喜多秀家は幼い時から秀吉に気に入られ、秀吉と多くの戦いに参加してきました。秀吉には秀の字をもらうなど恩義も深かったようで、西軍として参加します。宇喜多秀家は17000という西軍でも最も大きな軍を率いていました。とても17000人が入れるような場所ではないので、この南天満山の麓に広がって布陣していたんでしょう。

宇喜多秀家陣跡
宇喜多秀家陣跡

宇喜多秀家は東軍の福島正則と果敢に勝負をします。残念ながら、宇喜多秀家も小早川の裏切りで壊滅。最終的には薩摩へと逃亡するも捉えられてしまいした。戦後、処刑こそはされませんでしたが、東京の100キロほどの八丈島に島流し。そこで余生を送り、1655年に亡くなりました。

大谷吉継陣屋跡

宇喜多秀家の陣跡から藤古川ダムを渡り(車は通れません)、少し山の中に入っていくと大谷吉継陣跡です。

関ケ原の戦いで人気no.1は家康でもなく、三成でもなく、実はこの大谷吉継でしょう。吉継は三成の唯一の大親友でもあり、三成の挙兵を聞いたとき何度もとどまらせますが、どうしてもと頼まれ参戦を決めます。とはいうものの、大谷はこの時、謎の重病ににかかり、視力はなかったと言われています。

大谷吉継の陣からは小早川秀秋が布陣した松尾山がよく見えますが、これは偶然なんでしょうか。もしかしたら、合戦前にはすでに小早川が裏切るという情報をつかんでいたのかもしれません。

大谷に陣から見た松尾山
向こうに見えるのが松尾山
大谷吉継陣跡

 

小早川8000人にわずか大谷600人で奮闘。小早川以外の裏切りも出たことで、大谷は耐えれなくなり、とうとう自害することを選びました。関ケ原の戦後、大谷の健闘を称えて立派な墓が建てられ、今でも多くの人がやってくる場所となっています。

大谷吉継墓
大谷吉継墓。笹尾山の次ぐらいに来る人が多いです。

小早川秀秋陣跡

小早川秀明はまさに関ケ原の勝利を決定づけた人物。彼の陣は関ケ原の南部に位置する松尾山の頂上にあります。293mある山なので登るのが結構大変で、片道40分程度はかかりますが、関ケ原までわざわざ来て行かないわけにはいきません。登るにはきちんとした運動靴が必要なのと、熊の出没に注意です。

登山口は脇坂安治の陣跡付近にあり、麓には駐車場もあります。

登り口には杖もおいています。
松尾山への道のり
普通に登山ですが、山城に慣れていたら全くたいしたことのない道のりです。

松尾山の頂上は平たくなっており、もともとこの山頂には山城がありました。今でも土塀などが若干ですが残っています。

ここから関ケ原全体がとてもきれいに眺めることができます。結局、小早川秀明が裏切り、大谷吉継がやられたことがきっかけで西軍は破れます。となると、この小早川の裏切りこそが関ヶ原の戦いを決定づけたと言えるのでしょう。最初から裏切るつもりだったのか。それとも家康に裏切るように言われていたのか。いったい当時彼はどういうつもりでここに布陣したんでしょう。

松尾山頂上。ご飯を食べるくらいのスペースはあります。

通説としては、小早川秀明は西軍に味方すべきか東軍に味方すべきか決めかねていると、家康に銃弾を浴び東軍に寝返ったと言われていますが、山頂からは下にいる人物などほとんど見えないような気がします。となると、小早川秀明が家康の銃撃に驚いたという通説に少し疑問を感じてしまいます。

また、山は小さく17000人も布陣するのは少し無理がある気がします。麓にもいたんでしょうね。

松尾山からの眺め
松尾山からの眺め。合戦場全体がきれいに見えます。

なお、裏切り者たちの大半は戦後処分されていますが、秀秋は岡山を与えられます。そう考えると、最初から裏切る話になっていたんでしょうか。なお、彼は2年後にアルコール中毒で急死します。10歳ごろからお酒に入り浸った生活をしていたようです。