関ケ原を歩く 【東軍編】

日本で最も有名な戦いというとやはりこの関ケ原の合戦ですね。東と西がこの地でぶつかり、東の家康が勝利。家康はこの勝利の後江戸幕府を開くことになります。大阪や名古屋からは少し遠いですが、日本史が大好きな人ならここにきたら間違いなく楽しめます。

関ケ原を歩く(東軍編)

JRで大阪から電車でほぼ2時間。米原駅から岐阜へと向かう東海道線に乗り、伊吹山を越えてすぐに関ケ原に到着します。この区間の電車はいつも混んでいますが(特に18きっぷのシーズン)、関ケ原で降りる人はほとんどいません。大阪も名古屋からもめちゃくちゃ遠いわけではないのですが、大した開発もされておらず、田舎の雰囲気がしっかりと残っています。

関ケ原の駅には関ケ原の戦いの看板がたくさんあります。

なお、前回は関ケ原に布陣した西軍の陣跡を散策しましたが、西軍は思い小高い山の上に陣を張っているので少し大変でしたが、東軍は主に平地に陣を築いているので、結構楽に回れます。

井伊直政・松平忠平の陣跡

関ケ原の駅を降りてすぐのところに、井伊直政と松平忠平の陣址がありました。

井伊直政・松平忠平陣跡。駅の本当にすぐ近くにあります。

松平忠平は家康の四男。井伊直正は彼の甥で『赤備え』という赤一色で統一された甲冑を着ていることで有名な武将です。ここに6000の兵で布陣しました。彼らは合戦の当日に最前線で陣を守っていた福島正則の脇を通り、敵陣向かって発砲。これが開戦のきっかけになったと言われています。合戦終盤に井伊は西軍の島津義弘に銃弾を受け重傷。その傷がのために亡くなってしまいました。

陣跡のすぐ近くには東首塚があり、徳川家康が戦後に首実検を行った場所とされています。

福島正則陣跡

関ケ原の駅から西に15分ほどの中山道沿いに、福島正則の陣跡があります。陣跡は小さな春日神社内にあります。

もともと母が秀吉のおばであり、秀吉のもとでは大活躍。もともと三成を嫌っており、関ケ原ではいち早く家康軍をサポートすることを宣言し、関ケ原では東軍の最前線を守っていた人物です。

福島正則陣跡の大杉
陣跡には関ケ原の戦いの頃から存在する大杉が生えています。

関ケ原の合戦では西軍の宇喜多秀家と決闘。西軍からは裏切り者も出たことで、これになんとか勝利し、東軍は一気に三成を追い込みました。

関ケ原の戦いでは最も活躍した人物と言えます。勝利後は広島を与えられるのですが、広島城を無断で改修したと江戸幕府に咎められ、晩年は長野の片田舎に飛ばされてしまいました。

本多忠勝陣跡

関ケ原の駅から南に10分ほど下ったところにあるのが本多忠勝の陣跡。県道や国道に挟まれて所なので住宅地になっており、少しわかりにくいのですが、看板が多く出ているので迷うことはないと思います。

本多忠勝は天下を取ることはなかったものの、幼少期から家康に使え、有名な戦にはことごとく参加して勝利しています。そのため、戦国最強の武将としても知られているような人物です。

本多忠勝陣跡
本多忠勝陣跡

もちろん、関ケ原でも最も大活躍。主に指揮を務めたようですが、500人ほどの小ぶりな軍隊で、三成への攻撃や島津軍への追撃などを行っています。勝利後は伊勢の桑名を与えられ、東海道の重要な拠点を守りました。

徳川家康陣跡

井伊直政・松平忠平の陣跡から北に5分ほど行ったところにあるのが、徳川家康最後陣跡です。陣場野公園と呼ばれています。

家康は関ヶ原到着後、西軍がすべて見通しのいい小高い丘の上に陣を構えていたことから、自身も合戦場から少し離れた西にある桃配山の頂上に陣を構え、戦況を見守りました。家康のことなんで、ビビっていたんでしょうか。

桃灰山は関ケ原の駅から西に30分ほど。他の陣跡とはかなり離れています。
桃配山からの景色
桃配山から。すこし遠くに見える山々が関ヶ原の決戦地です。

しかし、戦況が進むと、陣を進めて戦場のほぼ真ん中に位置する最後地にまでやってきました。東軍が押されていたからとか鉄砲で見えなかったらとか言われていますが、確かに桃配山からだと少し遠い気がしますね。通説ではこの最後陣跡から小早川にむけて発砲し、東軍へと寝返らせたと言われています。

最後陣跡から三成がいた笹尾山までの距離は近く、合戦当日はおそらくお互いに見えるぐらいだったんでしょう。家康を見た三成はきっと焦ったと思います。

陣場野公園
最後陣が置かれた陣場野公園
徳川家康最後陣跡の床几場
最後陣跡の床几場。ここで首実検を行ったと言われています。

細川忠興陣跡

陣場野公園から東に5分ほどの小さな公園の中にたたずむのが、細川忠興陣跡です。ここに5000の兵で布陣しています。西軍からもほど近いので、戦いやすい場所です。

細川忠興陣跡

細川忠興は家康との仲が深く、石田三成暗殺未遂事件を引き起こした張本人でもあります。さらには妻のガラシャが三成によって人質として取られそうになり、ガラシャは自殺(ガラシャはキリシタンなので、側近に殺させたとも)。三成に対する憎しみはかなりあったと思われ、関ケ原の戦いではもちろん素晴らしい功績をあげています。

勝利後は豊前を与えられ、大幅な加増となりました。

竹中重門・黒田長政陣跡

細川忠興陣跡の背後にある岡山(164m)にに布陣していたのが、竹中重門・黒田長政です。東軍の中でも丘の上に陣を張っているのは竹中重門・黒田長政ぐらいで、ほとんどの小高い丘はすでに西軍に占拠されていたようです。山の上とはいえ、 遊歩道も整備されているので歩きやすいです。

それぞれ竹中半兵衛そして黒田官兵衛の子供であり、両者は天才軍師として知られた人物。特に黒田は関ケ原では小早川の寝返りの交渉を務めるなど大活躍し、戦後は筑前(現福岡県。福岡と名付けたのは長政!!)を治めています。

竹中重門・黒田長政陣跡

岡山からは関ケ原がよく見渡せ、関ヶ原の戦当日はここで開戦の狼煙が上げられ、東軍全員に戦争開始の命令が出されたと言われます。

ここからも関ケ原の町並みがよく見えます。